メガバンクから宮崎銀行へ。35歳の転職で得た、幸せな時間。

メガバンクから宮崎銀行へ。35歳の転職で得た、幸せな時間。

メガバンクから宮崎銀行へ。
35歳の転職で得た、幸せな時間。

このストーリーのポイント

  • メガバンクで11年のキャリアを重ね、宮崎銀行へ
  • 地元に貢献したいという思いを実現できる喜び
  • 充実の家族時間を手に入れ、豊かな暮らしを実感

メガバンクでキャリアを積んだ後、出身地の宮崎へUターン。「地元のために」という純粋な思いで下した決断だった。その結果実現できたのが、地域貢献の実感と家族との時間。大きな選択に間違いはなかった。

PROFILE
宮崎銀行

田嶋 洋希

経営企画部

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宮崎県出身。2007年にメガバンクへ入行。支店での法人営業、海外駐在、本部企画等を経て、2018年に35歳で宮崎銀行に転職。東京から故郷にUターンする。現在は経営企画部にて経営陣のサポートを行う。

メガバンクで11年のキャリア

宮崎県出身の田嶋が新卒でメガバンクを選んだのは、経済を支える黒子的な位置付けにある銀行に惹かれたことと、社会に与えるインパクトはメガバンクが抜きん出ているだろうと考えたからだった。
「地方銀行はまったく視野に入ってなかったです」そんな田嶋が、今は地元に帰って宮崎銀行で充実の日々を送っているのだから、人生とはわからない。

田嶋は、メガバンクで11年を過ごした。
福岡支店での法人営業を皮切りに京都支店、シンガポール駐在と経験を重ね、最後は本部企画関連の業務にも就いた。
「支店では新人の私であっても取引先の役員や部長と直接お話ができて、資金調達のお手伝いをさせていただきました。メガバンクならではの醍醐味を感じました」
経済学部での学びは、あくまで机上のもの。それに対して支店の第一線では、実社会での銀行業務の使命や機能について、身をもって学ぶことができた。

シンガポール駐在も経験した。
「シンガポールでは、支店であっても一つの銀行としての位置付けにあって、いわば小さい銀行を経営するような感覚で、事業戦略や決算、人事、当局対応などをこなしました」
目の回るような忙しさではあったが、やりがいも大きかった。このときの経験は、今、宮崎銀行で経営企画の業務に取り組む上で、非常に役立っているという。

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宮崎銀行へ、転職の決断。

メガバンクで順調な歩みを重ねていた田嶋が、35歳という年齢で、なぜ宮崎銀行への転職を決断したのだろうか。人生の岐路での大きな決断だったはずだ。
田嶋は「今振り返っても、思い悩んだ末の決断というわけではなく、割と衝動的に決めた気がします」と振り返る。
「メガバンクでの仕事はやりがいがありました。特に最後に所属した企画関連の部署は経営の中心にいる実感もあり、達成感もありましたが、内向きの仕事が多かったです。」
経済を支える黒子として働きたいと思ってメガバンクを選んだはずなのに、今の自分は何のために仕事をしているんだろう。今の自分は、社会にインパクトを与えられているだろうか。日々の仕事の中で、田嶋の胸にはそんな問いが沸々と湧いてきたのだ。

そんなときに目にしたのが、宮崎銀行のホームページだった。
「”地銀戦国時代”、”地銀大再編”などの言葉がよくメディアに取り上げられている時期でしたが、このような激動の環境に身を置くことで、社会により大きな影響を与えられるのではと考えました」
そこにはキャリア採用の案内があり、エントリーしたのだった。

「今でも覚えているのですが、エントリーしたのは正月休みの新宿のネットカフェからでした。写真もすごくカジュアルな格好だったので、人事部は“この人、本気だろうか”と思ったそうです」
その後すぐに面接をして、春には宮崎銀行への転職を実現させた。大きな物事が進むときとは、得てしてそのようにとんとん拍子で運ばれていくのかもしれない。
その間、田嶋に迷いはまったくなかった。

そもそも、なぜ宮崎銀行だったのだろうか。田嶋は「地元だったから、ということに尽きます」と答える。
「銀行で経済を下支えするとしても、地元だから頑張れるという思いはあります。地元のためにという思いは絶対にモチベーションになるし、宮崎を元気にしたいというのは根底にありました」
大学進学で地元を離れて上京。メガバンクで働き、シンガポールにも駐在した。その間、“宮崎のために”という思いは、田嶋の中にまったくなかったそうだ。それがホームページを開いてエントリーした瞬間から、宮崎のために頑張りたい、地元をなんとかしたいという強烈な思いがわき上がってきたのである。
地元で生まれ育って18年。地元を離れて11年。記憶にない幼少期をのぞけば、田嶋にとって人生の約半分は地元以外で過ごしたことになる。それでもなお、「地元のために」という思いは、自身でも驚くほどに抑えがたいものだった。

もちろん純粋な思いだけで決断を下せるわけはない。待遇面も気にする要素の1つになる。田嶋ははっきり言う。
「収入は下がりました。ただ、東京に比べれば宮崎の物価はかなり安いし、下がったといっても特に不自由は感じていないです」
奥さまも田嶋のそんな選択を後押ししてくれたそうだ。
「メガバンク時代の私は東京に単身赴任で、妻はそろそろ上京して一緒に暮らさなければと思っていたようでした。長く九州に暮らしていたため、東京での生活には不安を抱いていた中、宮崎で暮らせるということを喜んでくれました」

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温かく受け入れてくれる風土

田嶋が転職した当時、宮崎銀行ではキャリア人財をほとんど採用していなかった。
「その中でなぜ私が採用されたか詳しくはわかりませんが、法人営業の経験を高く評価してもらったのではないかと感じています。あとは私見なんですが、“宮崎のために”という思いは、ずっと地元にいた人より強いのではないかと思っています」
宮崎を離れ、外から宮崎を見ていたことで、宮崎のいいところもダメなところも、客観的にわかる。それはきっと宮崎銀行を変革する力につながるに違いない。
だから田嶋は「私のような人財がもっと入ってくれたら」と強調する。

新卒で入行した行員が圧倒的多数を占める中、東京のメガバンクで働いていた田嶋が果たして仲間として受け入れてもらえるか、そんな不安はなかったのだろうか。
「正直、私が受け入れられるかの不安はありました。宮崎銀行で働いているのは約1,300人で、本部は約300人。全員が顔見知りみたいなものですから、どうなのかな、と」
ただ、それはまったくの杞憂で、予想以上にスムーズに溶け込むことができたという。
最初に配属されたのは審査部(現・融資部)。そこではメガバンク時代の習慣そのままに、田嶋は上司も「さん付け」で呼んだ。周囲は驚いたが、当の上司は「いいね、いいね」と笑って受け流してくれた。これはほんの一例で、自分が溶け込めるようにという配慮を随所に感じたという。
「やはり宮崎は、土地柄もあって人々がゆったりしているんです。鷹揚で、温かく迎え入れてくれる。こうした風土はとても心地いいものです」

審査部で1年を過ごした後、田嶋は経営企画部に異動した。現在はここで営業戦略の立案など、宮崎銀行の経営の舵取りにつながる業務に携わっている。中期経営計画も既に二度、作成した。
「メガバンクで企画部門にいたときは担当が細分化されていたので、“銀行はこうあるべきだ”という視点は持ちづらかったです。しかし今は、宮崎県という地域において宮崎銀行はどうコミットしていくかという視点で取り組むことができます。それは非常に大きなやりがいです」
中期経営企画も経営のボードメンバーとディスカッションを重ねながら作成した。シンガポールで銀行経営のすべてに携わっていたときの経験が、ここでは生かされている。
キャリア人財ならではの価値発揮ができているのだ。宮崎銀行にとって田嶋という存在自体が大きな刺激となっているのは間違いない。
「宮崎銀行の最大のお客さまは宮崎の地域社会です。我々は行政と違って直接住民の方にアプローチできるわけではないので、取引先を通じて経済的な活力を生み出し、それによって地域社会を盛り上げていきたいと考えています」

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メガバンク以上の存在感とインパクト

宮崎銀行の強みとは何か。メガバンクを知っている田嶋だからこそ見えている強みがある。
「宮崎県でのシェアと影響力は圧倒的です。だから宮崎銀行が本気になれば、宮崎県を変えていける。それはメガバンクにはできないことです」
そうした強みは内側からだと見えづらく、宮崎銀行自身が気づいていないこともある。ポテンシャルを引き出していくことが田嶋の使命となる。挑戦すべきことは多い。

アルムナイという言葉がある。同窓生・卒業生という意味の英語で、ビジネスにおいては定年退職者以外の退職者を示す言葉として使われている。田嶋の前職であるメガバンクにもアルムナイのネットワークがある。
メガバンクから地方銀行に転職した人間はほぼおらず、コンサルタントやスタートアップ、IT関連などがセカンドキャリアとしては一般的だ。
地方銀行への転職をする人数が少ないが故に、ためらう人財がいるかもしれない。だからこそ田嶋は次のように言う。
「大きな可能性を秘めた地方銀行も選択肢の一つとして強くおすすめしています。私はこうして誇りを持って毎日を過ごしています。そんな私の姿を見ていただければ、きっと良さが伝わると思います。」
今やメガバンクもキャリア採用が年間入行数の半数を占める時代となった。新卒を一括で大量採用し、数年ごとの異動を繰り返して競わせ、育成していく、“銀行すごろく”はもうない。だからこそ求められるのが、主体的にキャリアを拓いていく姿勢だろう。
「一歩踏み出す勇気を持ってほしいと思います。ただ、それには勇気の裏付けとなる実績とスキルは絶対に必要です」

今、田嶋はほとんど残業をしない。毎日のように家族と夕げの食卓を囲み、子どもと一緒に風呂に入る。家事も手伝う。深夜までの残業に追われていたメガバンク時代には、想像もできなかったことだ。
「この生活を手に入れられたことが、一番よかったと思っています。3人の子どもと一緒に過ごせる時間は、まさに宝物。もちろん宮崎に骨を埋めるつもりです」
思ってもみなかった人生の選択が、思っていた以上の幸せをもたらしてくれた。田嶋の笑顔が、そう語っている。

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